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幸せになる為には覚醒は必要でしょうか?
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必ずしも必要ではありません。
それはその人が何を望むかによります。
覚醒がなくても幸せな人は幸せですし、覚醒という体験がその人の混乱をなくして幸せに導くということもあります。
問題は常に自分自身なのです。
私が幸せであるなら、それは幸せであり、不幸であるなら不幸なのです。
既に幸せであるなら覚醒は不要ですし、もし、自分が不幸であると感じるなら探求の余地はあると思います。
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先生の言う覚醒とはどういう事ですか?
解脱と同じ事ですか?

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違います。解脱とは、完全なる涅槃に入る事を意味していますので、
解脱する人は、そうそういる物ではありません。
私の解釈では、菩薩でさえ解脱はしていません。それが菩薩が菩薩であるゆえんです。
しかし、覚醒とは文字通り目覚める事を意味していますので、
それはもっと容易に成し遂げられる事です。
私の言う覚醒とは、涅槃のように終わりを意味する事ではなく、
まさに、人として目覚めて、自らや、
その周りの世界に常に気付きを持って生きる事ができるようになる事を指しています。
故にそれは、終わりを意味する事ではなく、始まりを意味する事なのです。
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願い事を叶えて欲しいという動機で
信仰心を持つ事は間違ってますか?
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願い事にもよります。
たぶん、まともな神経を持っているなら自分で、その願いが正しいか誤っているかが、わかるはずです。
欲望に満ちた願いは正しくありません。
しかし、それは確かに欲でも病気の平癒や生活の安泰を祈る事は罪ではありません。
私からすれば、願いが無いから祈る事も無い、という状態より、
願いたい事があるから一生懸命祈る、と言う事の方が重要だと思っています。
ですから、願い事を正しい動機として信仰することは間違っていないと私は思います。
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神様に祈れば幸せになれますか?
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私は幸せになれると、理解しています。
しかし、それは現実的に幸せになると言う事を必ずしも意味しません。
真の幸福とは、内なる幸福であり、それは自分の心が神とともに在る事であり、
自己の本質に留まっている事を意味しています。
そして、その幸福は長年の信仰生活によって培われていく物だと、私は考えています。
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神の名の元に争いが絶えないのはなぜだと思いますか?
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神の名のもとに争いが起きているのではありません。
思想によって起きているのです。
ただ、その思想に神があれば神と言う言葉は、人間によって利用されてしまいます。
私は、そう解釈しています。
問題は人間のエゴにあります。
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瞑想をしていたら幻聴が聞こえたり、幻覚を見るようになってしまいました。それからは恐怖や不安も同時に増大して困っています。先生に治してもらえますか?
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恐怖や不安が出るようであれば、しばらく瞑想は中断したほうが賢明です。
自己の実現の為に、瞑想は必ずしも必要なものではありません。
また、それを治すと言う事も出来ません。
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先生はいつからこういった世界に
興味を持ち始めたんですか?
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私は物心ついた頃から神様とか古代文明とか大好きでしたから、
自分の記憶では5歳くらいの時には完全にはまってました。
その頃はそういう神秘的なものに惹かれる、という感覚のものでしたが、
8歳の時にちょっとした神秘体験をしてからは仏教やキリスト教など宗教的なものにぐいぐいとひっぱられるようになり、18歳でインドへ行くことになりました。
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修行についての戒律とその必要性について教えて下さい。
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戒律の解釈は難しい所です。
と、言うのも私たちが本来理解している戒律とは、
闇雲に信じる規則であり、それは無意味どころか、マーヤになります。
誰かに、こうしなさいとか、ああしなさいと、言われることはマーヤ以外の何ものでもありません。
しかし、私たちは私たちの従うべき道があり、その道では常に正しい理解が要求されます。
そして、その正しい理解は時として、一般的にみれば戒律のように映るかもしれません。
しかし、それはその本人からすれば守るべきである事を守っていると言うことを知っていることであり、それはマーヤにはなりません。
大切な事は、どうしてそれを守らなければならないのか?と言う事を正しく理解しているかどうかなのです。
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人はどうしたら苦しみから逃れられると思いますか?
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人間は苦しみから逃れる事は出来ません。
しかし、認識の仕方で、それを苦しみと取るか取らないかで、幸不幸は決まってきます。
出来事はただ起こります。そして、それをさけることはできません。
問題は私達がその出来事をジャッジしてしまう事です。
幸なのか?不幸なのか?と。
それが不幸という事です。
苦しみと共にある事ができる人は苦しみがない人です。
不幸と共にある事ができる人は不幸がない人です。